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ほぼ日刊イトイ新聞

2025-04-13

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・一年生のことなどを、よく考えている。
 これまで、家のなかや、保育園や、幼稚園にいた人たちが、
 一年生になると「学校」の「教室」に集まることになる。
 「学校」には「教室」がいくつもある。

 ひとつの「教室」に集まった子どもたちは、
 ひとりひとりが、まったくちがった個性を持っている。
 私立だったら、親たちが、「その学校に入ろう」
 という考えを持っていた、という共通点はある。
 公立の場合は、居住地域が共通ということがあるだろう。
 それでも、ひとりひとりの子どもは、みなちがう。
 それに「1年1組」みたいな集合の名前が付く。
 そこにいるばらばらの子どもたちは、
 「わたしたち」は「1年1組」だと思うようになる。
 保育園などでも、ある程度は「きりん組」みたいに
 集合の名前があって、集団ではあったとは思うが、
 小学校に入ってからの「ぼくら」とは、
 まとまり具合がちがう気がする。
 1年生になったとき、はじめて人は
 「WE(わたしたち)」であることを感じる。
 同時に、「じぶん」と「みんな」がいると知る。
 以上は、ただ単に、ぼくひとりで考えたことなので、
 ちがっているかもしれないが。

 まだ名前も知らない「みんな」が、
 同じ「教室」や「学校」という場所で、
 「わたしたち」として存在している。
 これは、いわば、それぞれの子どもが、
 初めてじぶんを主人公とした「社会」と出会うことだ。
 こんなおもしろいことを、1年生たちはいま経験している。

・なんてことを考えながら、ぼくは、
 やりかけているいろんな「仕事」のことを想像した。
 それぞれのやっている「仕事」は、ばらばらな子どもだ。
 それは、いま現在の「ほぼ日」を見ただけでも、わかる。
 あれがある、これがある、あれこれ個性が別にある。
 そこにさらに、ちがったおもしろいことを考えている。
 これを、みんな集めて「ほぼ日」という教室に入れたら、
 ばらばらだったのに、ひとつの「WE」になる。
 おもちゃ箱の「箱」があると、みんながつながるのか…。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「メディアはメッセージである」、「おもちゃ箱」である。


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